髙柳雄一館長のコラム

木を見て森を知る科学の営み

前回のコラムでは、地球文明にとって危機的状況として地球温暖化を取り上げました。その際に、19世紀後半から現代まで世界で観測された平均気温変化と、気候変動モデルに基づき分析された自然と人間活動が原因の気温変動を区別して示したグラフで、人間活動が原因となった地球温暖化傾向が歴然と現れていことをお見せしました。人間活動により大気中に含まれる二酸化炭素が増加して、地球大気の温度上昇が生じているとする結論が導かれるのは現代科学が導いた気候変動モデルの一つの成果とも言えます。

▲NASAによる観測温度 と1850-1900年のIPCCによる産業革命前の気温の定義に基づく平均値の比較(ウィキペディアから引用)

今年度のノーベル物理学賞が、「地球気候を物理的にモデル化し、変動を定量化して地球温暖化の高く信頼できる予測を可能にした業績」により、アメリカ、プリストン大学の真鍋淑郎さんとドイツ、マックスプランク研究所のクラウス・ハッセルマンさんに授与されたことは地球温暖化が人類にとって最重要課題となっている現代にふさわしいニュースでした。その際、物理学の応用である気象科学への授与が話題になっていました。そして、ニュースであまり紹介されませんでしたが、今年度のノーベル物理学賞受賞者には、もう一人「原子スケールから天体スケールまで物理系における無秩序と揺らぎの関連を発見」したイタリア、ローマ・ラ・サピエンツァ大学のジョルジョ・パリージさんがいました。

2021年度のノーベル物理学賞選定理由は、ノーベル財団のホームページに発表された表現では、複雑系物理学分野における画期的な貢献に対する業績と一つにまとめられています。
ノーベル賞では多額の賞金が授与されますが、今回の3人では、賞金の半分をジョルジョ・パリージさん、真鍋さんたちが残りを半分ずつで受け取ることになっています。これを知ると、ジョルジョ・パリージさんの業績の貢献が高く評価されていることにも気づかされます。今月のコラムでは、原子スケールの物理系における無秩序と揺らぎの関連を発見したジョルジョ・パリージさんの業績に触れてみたいと思います。

物質は原子や分子の集まりで、ミクロなスケールでは絶えず変化をしながら、マクロにみると変化が目立たない安定した状態を示しています。大気中の空気を構成する窒素や酸素などの分子が激しく運動していて、その運動の激しさが大気の圧力や気温に反映されていることもご存じでしょう。この様にミクロな世界を構成する物質粒子の世界を科学的に捉えて、それを基にマクロな世界の現象を理解する科学を統計物理学と呼んでいます。ジョルジョ・パリ―ジさんはこの分野の専門家です。

今回のノーベル賞受賞理由につながる業績では、磁性体におけるスピンの向きが乱れたままに凍結するスピングラスと言う現象に対して独自の解析手法を開発して結果を導いたことがあげられています。ここでスピングラスを正確に説明することは不可能ですが、簡単に触れてみます。まず磁性体と言う言葉ですが、磁石の性質を帯びた物質を指しています。棒磁石や方位磁石に使われる磁針は磁性体でできています。そして、磁性体を構成するミクロな分子や原子も方位磁石の性質を帯びていることが分かっています。この原子スケールの方位磁石に対応した科学的表現がスピンです。

一般に磁性体が強い磁石となるのは、原子スケールの方位磁石であるスピンの向きが全て一定の方向にそろった時です。ところがスピングラスと呼ばれる物質は、大部分が磁性体では無い物質の中に磁性体が少し含まれた物質で、外部環境に応じて、磁性体に含まれるスピンの向きが無秩序に乱れた状態をとるのです。スピンの向きが乱れた状態を示した図をご覧ください。下の図のようにスピンの向きがそろうと磁石の性質が強く現れるのです。


▲スピングラスのランダムなスピン構造(上)と、強磁性体の秩序をもつスピン構造(下)の模式図(ウィキペディアから引用)

話が難しくなりましたが、ジョルジョ・パリ―ジさんは、このスピングラスの磁性体が示すスピンの無秩序さを解析する手法を開発して、その結果を示すことで「原子スケールから天体スケールまでの物理系における無秩序と揺らぎの関連の発見」と言う業績を評価されたことを、いくらかでもご理解いただけたと思います。

今回のノーベル物理学賞の受賞理由を知って、私が思い出したことわざがあります。
「木を見て森を見ず」です。広い森を理解する際、身近な木の詳細だけを知っても、却って森全体が見えなくなることもあるという意味だと思います。これに対して、現代の科学では、原子のスケールと言うミクロな世界を科学的に捉えて、それらが要素となっているマクロな全体も、時には地球のスケールまでもが科学的に理解することができるようになってきたようです。いずれにしても、今回のコラム、科学が対象とする自然の不思議さと、それに迫る人間の科学と言う営みを考える機会ともなりました。

 


高柳 雄一(たかやなぎ ゆういち)

1939 年4月、富山県生まれ。1964年、東京大学理学部物理学科卒業。1966年東京大学大学院理学系研究科修士課程修了後、日本放送協会(NHK)にて科学系教育番組のディレクターを務める。1980年から2年間、英国放送協会(BBC)へ出向。その後、NHKスペシャル番組部チーフプロデューサーなどを歴任し、1994年からNHK解説委員。
高エネルギー加速器研究機構教授(2001年~)、電気通信大学教授(2003年~)を経て、2004年4月、多摩六都科学館館長に就任。2008年4月、平成20年度文部科学大臣表彰(科学技術賞理解増進部門)