髙柳雄一館長のコラム

猫と満月と、そして竜宮へ

「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」

 夏目漱石の有名な小説『吾輩は猫である』の冒頭の文章です。名前のことを考える時、私はこの文章を思い出すことがよくあります。今年の夏、一般社会からJAXA(宇宙航空研究開発機構)に応募された7300件余りの小惑星探査機「はやぶさ2」が目指す小惑星の名称案から一つの名称を選考する委員会のまとめ役を依頼された時もそうでした。
 考えてみると、この世の中に何らかの原因で登場した物には、どんなものでも名前がつくまで名前はまだ無いと言えます。何とも当たり前の事実を述べた文章ですが、名前について考える状況に出会うと、この文を思い浮かべるのは、人間にとって、名前がまだ無い物に出会った時に感じる、ある種の不安、気がかりな状況を端的に示しているせいかもしれません。

 日頃、私たちが見たり聞いたり意識して物事を考える時、そこで登場する事物には全て名前がついています。逆に、物事を考える時、そこに登場する物事に名前が無ければ、人間は考えを進めることが出来ないと言う方が正しいかもしれません。世界を知り、その成り立ちを理解するために、人間はそこに存在する事物の名前を何時も必要としているのです。
 科学が、自然の成り立ちを理解しようとする人間の営みだとすると、そこで使われる名前が持つ役割の重要性は言うまでもありません。それだけに小惑星探査機「はやぶさ2」が目指す小惑星の名前を選考する上では、幾つもの役割を考慮する必要がありました。

 この話題に詳しい方はご存知でしょうが、小惑星探査機「はやぶさ2」が目指す小惑星は、アメリカ・ニューメキシコ州ソコロで地球軌道に近づく小天体探査を組織的に探査しているLINEAR(リニア)と呼ばれるチームが1999年5月10日に発見した天体です。発見後、この天体は1999JU3と呼ばれてきました。国際天文学連合に仮登録された名称です。小惑星の正式名は、「はやぶさ」が探査した「イトカワ」の場合もそうでしたが、発見者が名称提案権を持ち、発見者から国際天文学連合に提案されて認められると正式に決定されて世界に公表されます。
 このため、この夏、JAXAが一般社会から小惑星探査機「はやぶさ2」が目指す小惑星の名称を公募したときには、既にアメリカのLINEAR(リニア)チームに日本で公募された名称から選考された名前を、仮登録された小惑星1999JU3の正式名称として国際天文学連合に提案して頂けるように手配してあったのです。

 いずれにしても日本で選ぶ名称と選定理由が、まずはLINEAR(リニア)チームに賛同されて提案され、最終的には国際天文学連合に問題なく受け入れられる様にする必要がありました。この小惑星の名称案を募集した際にJAXAが説明した資料には、名称案を考える際に必要な配慮がいくつも示されています。例えば地球軌道に接近する小惑星は神話から名前をとるのが慣例になっていることが説明されています。勿論、国際的に正式名称となるのですからアルファベット表記であることが必要です。小惑星の名称選考委員会では、そんな幾つもの条件を満たした名称案の中から、国際天文学連合のルールに適った名称と選定理由も持つ名前案を選定して行いました。

 その結果、小惑星探査機「はやぶさ2」が、目指す小惑星から試料を採取しカプセルで持ち帰る計画と浦島太郎が竜宮から玉手箱を持ち帰る日本の神話の類似点、水中にある竜宮が水の存在が期待されている小惑星に相応しい名前と言える点などを評価して「Ryugu」(リュウグウ)が選ばれました。9月8日のことです。そして9月中旬、アメリカのLINEAR(リニア)チームに名称案を報告し、賛同を得て、国際天文学連合にこの名称案の申請をして頂きました。

 審査は通常3ヶ月程度は掛かると言われ、審査結果は国際天文学連合の小惑星センターが毎月発行している「小惑星回報」に名前とその由来が掲載されて正式に決定されます。興味深いことに国際天文学連合小惑星センターのウェブサイトには「小惑星回報」の発行予定日は各月の満月の日と書かれています。このため名称選考委員会として「Ryugu」(リュウグウ)の正式決定が判明するのは10月か11月の満月の日以降だと予測しましたが、名称の正式決定は予想以上に迅速でした。発行は遅れたものの、9月28日の満月の日を日付とした「小惑星回報」に「Ryugu」(リュウグウ)の名前と、その由来が掲載されていることが10月5日には判明しました。「Ryugu」(リュウグウ)と言う名前は、こうして9月の満月、今年のスーパームーンの日に誕生したと言えるのです。

 小惑星探査機「はやぶさ2」が、目指す小惑星の名前が最終的に国際天文学連合によって正式に「Ryugu」(リュウグウ)と決定されたこうした経緯や選定理由については、10月5日午後4時にJAXAから既に発表されています。私も名称選考委員会の取りまとめ役を務めたので、この決定された名称の発表会場に立ち会いました。

 12月3日、小惑星探査機「はやぶさ2」は地球の重力を使うスイングバイという航法で「Ryugu」(リュウグウ)の軌道に近い軌道へ入ります。そんなタイミングに合わせて目指す小惑星に素晴らしい名前が迅速に決定されたことは、小惑星探査機「はやぶさ2」探査計画にとって非常に幸先の良いスタートになりました。
 小惑星探査機「はやぶさ2」が「Ryugu」(リュウグウ)から持ち帰る玉手箱、皆さんは何を期待していますか?

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髙柳雄一館長

高柳 雄一(たかやなぎ ゆういち)

1939 年4月、富山県生まれ。1964年、東京大学理学部物理学科卒業。1966年、東京大学大学院理学系研究科修士課程修了後、日本放送協会(NHK)にて科 学系教育番組のディレクターを務める。1980年から2年間、英国放送協会(BBC)へ出向。その後、NHKスペシャル番組部チーフプロデューサーなどを 歴任し、1994年からNHK解説委員。
高エネルギー加速器研究機構教授(2001年~)、電気通信大学教授(2003年~)を経て、2004年4月、多摩六都科学館館長に就任。

2008年4月、平成20年度文部科学大臣表彰(科学技術賞理解増進部門)