髙柳雄一館長のコラム

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5月、鯉に出会って思うこと

近くを流れる神田川沿いの散歩道ではサクラの花もみんな散ってしまい、道端では白やピンクの花水木の花が目立つようになりました。背後に見える公園の樹々には若葉の柔らかい緑が広がり、季節の推移を告げています。サクラの開花時には、風に吹かれて落下した花びらに覆われていた川面は透明感を増して、川底で漂う藻の間に潜んでいた真鯉の動きを見せてくれます。この川では色の黒い真鯉が多く、日ごろは鯉が住むことも忘れがちですが、水面に注目すると、水中から口を出し、背びれを水面に出した鯉の存在にも気づかされます。

この春、ある友人が『田んぼの生きもの誌』(稲垣栄洋著)という本を送って来ました。私が和歌山市で過ごした小学校と中学校で同級生だった彼の家は、市街地の田んぼの中の一軒家で、よく遊びに行った私にとっても田んぼは身近な世界でした。水田やそれを囲む畔道もよく覚えています。現代の都会に住む私たちにとって田んぼは身近な世界からすっかり姿を消し、私にとって、田んぼは子供の頃の懐かしい思い出の世界となっています。『田んぼの生きもの誌』を読みながら、畦道で出会った草花や、水田で見つけたドジョウやメダカなどを懐かしく思い出しましたが、同時に多くの知らなかったことにも気づかされました。

その一つは、鯉が弥生時代の田んぼで養殖されていたということです。この本には、「弥生時代の遺跡から出土したコイの歯を調査したところ、大きなサイズとごく小さなサイズのコイとがいました。小さなサイズのコイをたくさん集めてとることは難しいことから、水を制御した水田の灌漑施設を利用してコイを養殖していたと推察されているのです。」と記されています。現在、池や川で私たちが出会うお馴染みの鯉が、日本に水田稲作技術が伝わってきたと考えられている弥生時代には田んぼで養殖されていたと聞くと驚かされます。

端午の節句を迎え、水中だけでなく空中でも鯉のぼりとして、風にそよぐ鯉の姿が見られる季節になりました。鯉のぼりは、男の子の健やかな成長と出世を願った縁起を担ぐ風習として江戸時代に始まりました。端午の節句に慣行だった武家屋敷の幟(のぼり)の中に、鯉のぼりが登場した背景には、鯉にまつわる中国での登竜門の伝説を信じた町人文化も一役買っていることは、以前、このコラムでも紹介しました。


 

登竜門を手元の国語辞書で調べると、「そこを通り抜ければ立身出世できる関門」と解説され、「竜門」は黄河の上流にある急流で、ここをさかのぼった魚は竜に化すと言う伝説に基づくと記されています。鯉のぼりの風習では竜になった魚を鯉だとしているのです。確認のため、中国での鯉に纏わる故事成句をWEBで探すと、「鯉魚跳龍門」を発見しました。そこでは、困難を乗り越えた先には大きな成果が待っているとも記されていました。黄河の上流にある激流をのぼりきって竜になったのは鯉だったことを確認できました。

鯉が弥生時代には田んぼの生きものでもあったことを紹介した『田んぼの生きもの誌』では、端午の節句に立てられる鯉のぼりが登竜門の伝説に由来していることにも触れて、「旧暦の端午の節句は、梅雨の田植えの時期でした。こいのぼりは、もともとは梅雨の雨を滝に見立てたものだったのです。」と記しています。

 

田んぼのいきもの誌 創森社/稲垣栄洋 楢喜八・絵



新暦の5月は梅雨の到来を待つ季節でもあることに気づくと、我が家の紫陽花たちの葉の茂り方にも梅雨を予感した存在感が増してきたように感じます。今年も、五月晴れの空で、風にそよぐ鯉のぼりたちを眺め、竜門を超えて竜になったと言われる鯉たちが示す生命活動の逞しさにあやかりたいと願って、梅雨の季節を迎えたいと思っています。

 


髙柳雄一(たかやなぎ ゆういち)

1939 年4月、富山県生まれ。
1964年、東京大学理学部物理学科卒業。1966年東京大学大学院理学系研究科修士課程修了後、日本放送協会(NHK)にて科学系教育番組のディレクターを務める。1980年から2年間、英国放送協会(BBC)へ出向。その後、NHKスペシャル番組部チーフプロデューサーなどを歴任し1994年からNHK解説委員。高エネルギー加速器研究機構教授(2001年~)、電気通信大学教授(2003年~)を経て、2004年4月、多摩六都科学館館長に就任。2008年4月、平成20年度文部科学大臣表彰(科学技術賞理解増進部門)。