髙柳雄一館長のコラム

戦後80年一覧

戦後80年に想うこと

今年8月15日、日本は第二次世界大戦から戦後80年を迎えます。80年前の1945年8月15日正午、昭和天皇が自らラジオ放送で国民に終戦を伝えたからです。天皇の肉声のことを敬って玉音(ぎょくおん)と言い、このラジオ放送は玉音放送と呼ばれています。この放送によって日本国民は戦争に敗れたことを知りました。以後、日本では8月15日は「終戦記念日」として忘れられない日となっています。

終戦記念日のある8月を迎える度に、戦前生まれの私には忘れることのできない終戦時の体験が蘇ります。戦後80年、終戦記念日を重ねて来た節目の年を迎えた今年、私の終戦時の体験をこれまでに書いてきた文も含めて振り返ってみたいと思います。

私は母と共に、集まった大人たちに紛れて玉音放送を聞きました。2週間前に富山市で大空襲に襲われながら生き延びて疎開した、立山の麓にあった農家の縁側でした。富山地方鉄道立山線の終着駅より幾つか手前の、当時は「とんがり山」と呼ばれていた駅の近くに住んでいた母方の親類に当たる農家に滞在していた時です。

その日は晴れていて、幼かった私が耳にした放送は難解な言葉も多く内容はよく理解できませんでした。しかし、放送を聞き終えた人々の表情には安堵したような気配が漂っていたことをはっきりと覚えています。そして、そんな体験に参加できたことに、富山市の大空襲を生き延びた自分自身の幸せも感じていました。

富山県・呉羽山展望台から望む立山連峰  写真提供:(公社)とやま観光推進機構



 

8月になると蘇る私の終戦時の体験を、今も語ることができるのは、今生きているからです。富山市の大空襲を生き延びた体験が、今も終戦時の体験を語れることを支えていることに気づかされます。それだけに、生きている私を支えている富山市大空襲の思い出は、これまでに色々な形で書いてきました。

25年前、NHK在職時、人間と宇宙の関わりを宇宙科学が広げてきた知識の紹介を通して描くテレビやラジオ番組を放送してきた立場で、月刊誌「スカイウオッチャー」9月号(アストロアーツ・2000年発行)に書いた「ともに知る宇宙」からの引用をご覧ください。

「はっきりと思い出せる時と場所と置かれた状況の中で、宇宙と接したと私が感じたときがあります。それは第2次世界大戦の終わり近く、富山市内がアメリカ軍のB29編隊に空襲を受けた夜のことです。父が従軍記者としてインドネシアに行っていたときでした。
母と私は母の実家に住んでいました。場所は現在の富山市の中心部に近いところでした。その夜、空襲で焼け野原と化し、燃え続ける火に囲まれた私たち親子は、比較的幅のあるドブ川の水面下に身を浸して朝を待ちました。川のすぐ側にあった大木が燃え上がり、地表が赤々と映えていたのを子ども心に覚えています。朝を無事迎え、命が助かった後、母はあの木が倒れてきたときが二人の最後だと覚悟していたと語ってくれました。
そんな大変なときに私は燃え盛る木の頭上に輝く明るい一つの星を見つめていたのです。子ども心にも私たちがやがて火に包まれるという状況を感じていました。でもとても不思議なことに、そのとき、私は自分があの星と同じ世界で時間を共にしているのだと、その星に自分の分身のような感じを抱き始めていたのです。まだ小学校にも入っていない頃の忘れられない体験でした。」

はじめに「宇宙と接した私が感じたとき」と書いていますが、空襲を被災した6歳だった私が、よくは知らなかった宇宙という言葉をあえて使ったのは、私たち人間は成長して宇宙という言葉に接するより以前に、宇宙を感じる体験をしていることを強調したかったからです。火炎に迫られてドブ川に母と共に身を潜め、薄明が訪れる夜空に一つの星が見えていることで生きていると確信できた体験は、星空が広がる宇宙と自分の存在の結びつきを私に強く印象付ける体験の一つとなったのです。

自分の存在に不可欠な宇宙の存在は、大学に入って天体物理学を学び、科学的知識がもたらす宇宙の営みを理解することでさらに深まりました。そしてNHKと言うマスメディアで科学という人間の営みを社会に伝える仕事に就いたとき、私は関係した番組で、科学が捉えた世界の営みは、多様な宇宙の営みでもあり、私たち人間は、宇宙を知ることで宇宙との関わりを確認してきたというメッセージを伝えることに努めました。宇宙は人間が「ともに知る世界」だと放送で伝えたいと願ったからです。
次に紹介する終戦時の思い出は、現在館長を務めている多摩六都科学館で9年ほど経った頃、「思惟する天文学-宇宙の公案を解くー」(新日本出版社・2013年初版)で、先の文と共に書いた文からの引用です。

「自分が生きているという実感を宇宙との関係で気づかされたのは、富山での空襲の時である。大学で天文学を学び、その後、NHKに入り、ラジオやテレビの番組を演出制作したが、その中で宇宙の話題を取り上げて一般社会へ送り出す仕事をしたのも、富山での空襲体験がその根底にあると感じている。
富山市の空襲は8月1日、午後10時頃、米軍機の到来で始まった。この米軍機は別の地域へ通り過ぎ、人々は安心して就寝したという。その寝入りばな、8月2日午前0時ごろに空襲警報発令、その後、B29爆撃機が174機来襲したと言われている。戦闘機はまず照明弾を投下、続いて富山市周辺部から焼夷弾を投下し、市街地を火の輪で囲み人々の逃げ場を絶ったと言われている。
記録に残された事実は、私の中に残る記憶を奇妙に支えてくれる。子ども心に見た夜空は灰色に輝き、焼夷弾がばらまく紫色の油煙は夜空に咲いた藤の花のように見えたのを覚えている。空襲警報と共に母に連れられて逃げ出した私たちは、たちまち行く手を火の海に囲まれ、道路の横にあった幅のある溝の中に身を潜めた。溝には水が十分あり、母と頭だけ水面から出して周りの火から身を守った。
空襲は2時間ほどで終わるが、焼夷弾投下で生じた火の海は朝までくすぶり続けた。溝の近くにある大木が勢い良く燃え、あれが溝に倒れたときは親子で死を迎えると何度思ったかしれない。その時、私が見つけた希望は、夜空で目にした明るい星が一つ見えることだった。あの星が見えている間は、自分は死なない。祈るような気持ちで私たちは朝を夜空の星とともに迎えることができた。これが『ともに生きる宇宙』を考える私の原体験になったと言える。」

「思惟する天文学-宇宙の公案を解く」(髙柳雄一 ほか著/新日本出版社)



この文のおわりに、「ともに生きる宇宙」と書いています。私はマスメディアで番組を通して「ともに知る世界」として宇宙を伝えてきましたが、その後、先端科学が発見した宇宙の営みには人間にとって未知の暗黒物質や暗黒エネルギーが存在し、それが宇宙における私たちの存在をもたらし、宇宙の未来を支配していることも知り、宇宙と生きている人間の関わりを素直に表現するには宇宙を「ともに生きる」世界として、科学館にいらっしゃる皆さんと共有できればと願うようになっていたことに気づかされます。

ここで取り上げた文は、いずれも私が6歳のとき、富山市大空襲で夜空の星を見ながら無事に朝を迎えて、生き延びた体験の思い出を記したものです。今も生きている自分を意識するとき、それを可能にした富山市大空襲での生存体験が蘇り、終戦記念日を迎える8月の館長コラムでも紹介して来ました。戦後80年の今年、これまでに書いてきた終戦時の思い出を読み直すと、それが宇宙の営みを知る科学的知識の変遷にも影響を受けていることに気づかされます。

戦後80年、終戦時の思い出を互いに語れるのは、私たち人間が生きているからです。それを可能にしてくれる平和がいつまでも続くことを願ってこの夏も過ごしたいと思います。

 

 

 


髙柳雄一(たかやなぎ ゆういち)

1939 年4月、富山県生まれ。
1964年、東京大学理学部物理学科卒業。1966年東京大学大学院理学系研究科修士課程修了後、日本放送協会(NHK)にて科学系教育番組のディレクターを務める。1980年から2年間、英国放送協会(BBC)へ出向。その後、NHKスペシャル番組部チーフプロデューサーなどを歴任し1994年からNHK解説委員。高エネルギー加速器研究機構教授(2001年~)、電気通信大学教授(2003年~)を経て、2004年4月、多摩六都科学館館長に就任。2008年4月、平成20年度文部科学大臣表彰(科学技術賞理解増進部門)。